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上杉鷹山知ってますか?

上杉鷹山について

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Wikipediaによると

 

35アメリカ合衆国大統領にジョン・Fケネディ1961年に就任した際に、日本の記者団に「日本でいちばん尊敬する人物」を聞かれたときすぐに鷹山の名前を挙げたという逸話がある。1975年に綱淵謙錠と歴史家の奈良本辰也を迎えて放送されたNHKの歴史番組「日本史探訪」が紹介している。それによると、ケネディは『代表的日本人』により鷹山公を知り、政治家の理想像を見たとしている。

 

米沢藩の窮地を立て直した

・現代にも通じる政治手腕を発揮した

 

上杉鷹山の名言のひとつ

「なせば為る 成さねば為らぬ 何事も 成らぬは人の なさぬなりけり」

この言葉の意味は・・・

【やろうと思えば何でもできます。できないのはやろうと思わないからです。やろうとすることは他人のためではなく、自分のためになるのです。】という深い意味合いが含まれています。

 

上杉鷹山の出自

上杉鷹山は、寛延4年(1751年)7月20日に、日向高鍋藩主・秋月種美の次男として、高鍋江戸屋敷で生まれました。

高鍋藩とは、今の宮崎県高鍋町周辺を治めていた藩で、上杉鷹山が生まれた頃は2万7千石の小藩でした。今の宮崎県にある藩主の次男と、米沢藩

・なんの関連もないように思えますが、上杉鷹山の祖母が当時の米沢藩主である上杉重定と「従兄弟」の関係にあったのです。

・そのようなつながりが元で、上杉鷹山9歳の時、祖母の推薦により、跡継ぎのいなかった米沢藩主、上杉重定の養子に内定したことが、高鍋藩主の次男が米沢藩主になった理由です。

 

上杉鷹山の三大改革

財政再建

借財200,000両(現代価値で200億円)

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上杉鷹山が藩主となった頃、米沢藩30万石から15万石*1となり財政は決して良いものではありませんでした。

というのも、江戸幕府が開かれた頃、「まだ戦が起こる可能性がある」とした上杉景勝(家臣である直江兼続)の意向で、通常よりもはるかに多くの家臣を養っていました。

上杉鷹山が藩主になった頃に負担が重くのしかかり、早急な財政改革が必要でした。

この難関に対して、上杉鷹山は現代でも通じるような的確な方法で乗り切ったのです。

・大倹約令

上杉鷹山は、藩主自らが率先して節約した生活を行い、透明な会計を大事にした、現代でも通用するすばらしい手法を発揮した。「入るを量って、出るを制す」

明和年(1771年)には、「御領地高並御続道一円御元払帳」という一年間の米沢藩の収入、支出、借金などを詳しく記載した帳簿が作られました。

このような帳簿は、米沢藩内ではじめて作られたと考えられています。

財政難を克服するため、財政の全体を明らかにして、役人たちに協力と理解を求め、その後も、このような帳簿が何度も作られているとのこと。

江戸で一年過ごす江戸仕切料(生活費)をそれまでの7分の1である1500両から209両*2ほどにして、衣服や食事、本などをまかなったそうです。

上杉鷹山が米沢で過ごす生活費は、さらに少ないものだったようです。

また、日常の食事は一汁一菜、衣服は上等な絹ではなく綿で作られたものだけで、奥女中は50人から9人に減らしました。

上杉鷹山は、家臣たちに倹約を求めるだけでなく、自らが進んで質素なくらしを実践していました。

鷹山は「今日の生活を犠牲にしてでも、明日の立ち直りを考えなければならない。無駄な経費は今後10年間省略する。」といった極めて厳しい内容でした。
そして鷹山は、「それには、まず私が私の身の回りから実行するから、気づいたことがあったら遠慮なく言ってくれ」と自ら率先して実行していく熱意と意欲を示しました。

 

上杉鷹山は、寛政の改革でより多くの人々の意見を聞くことを大事にしています。

寛政年(1791年)、追手門前、政治所脇に「上書箱」という意見を投げ入れるための箱が設置され、所属を明確にすれば、藩士だけでなく、百姓(農民)や町人も意見書を入れることができました。

毎月日と15日に上書箱(目安箱)が開かれ、藩主が米沢にいるときは、本丸御殿の奉行詰の間で開くほど、ここに寄せられた意見は重要なものと考えられていました。

 

<精神の改革>

上杉鷹山は、「民の父母」となることを自分に言い聞かせ、藩政改革のに必要な場合には、例え重臣であっても処罰する、という厳しい態度で自分にも他人にも律してきました。

改革への誓い

上杉鷹山は、藩主となった明和4年に、米沢林泉寺境内にある、上杉家の祖新春日社に、「民の父母」の心構えを第一に、質素倹約を忘れない、など、藩主個人としての行動を誓ったのです。

さらに、翌年には置賜郡の守り神である白子神社に政治改革実行を誓ったのでした。

 

・しきたりにはこだわらない

江戸時代は、昔からのしきたりが数多く残されていましたが、上杉鷹山は大胆にもしきたりの一部を見直しました。

それは藩主として初めて米沢に入るときからはじまり、改革への意気込みを周囲に示したと言われています。

上杉鷹山が破ったしきたり

・乗馬する位置

・祝いの席の料理

・普通は声を掛けない下級家臣にも声を掛ける

といったものでした。

 

 

<産業の開発>

上杉鷹山は、米沢藩の強みを活かした特産品の開発に力を注ぎました

養蚕 「養蚕手引」の作成や、他藩の養蚕家による指導

・製糸 「米沢印」のある絹織物は最高の部類として高く評価されています。

・織物¥

・製塩

・製陶

 倹約一筋の藩主ではなく、領民の生活向上のために努力した人であることが分かりますね。

 

本を読んでの感想

心の種火を絶やさず、自分の内側から湧き上がる気持ちを育てることが何よりも大事
自分だけでも心の種火を絶やさなければ必ず誰かに伝染するんだぞということを信じて諦めない
変えることができるのは、自分と未来だけ

 

*1:お米1kg 300円計算し、1石45,000円と仮定すると、67億5千万円

*2:1両10万円計算で2090万円